LOGIN窓を背にして、スマートフォンを伏せるようにテーブルへ置く。その動作が、未央にははっきり見えた。
応接室には、磨かれたテーブルの匂いと、空調の冷たさが残っていた。「何を見てたの」「仕事の連絡だよ」「仕事なら伏せなくていいでしょう」 司は一瞬だけ黙った。 その一瞬が答えだった。 未央はテーブルへ近づき、スマートフォンを取ろうとした。司が先に手を伸ばして押さえる。「未央」「見せて」「今はやめよう」「やめよう、って何。私たち、結婚するんでしょう」 司の眉が少し動いた。 その反応だけで、未央のこめかみが熱くなった。「急に、その話?」「急じゃない。ずっと前から決まってた話よ。栞がいなくなって、私が如月家の娘として残って、あなたは私の婚約者になった。何もおかしくないでしょう」「未央、落ち着いて」「落ち着いてる」 声が少し高くなった。自分でも分かったが、下げられなかった。「待ってください」 声を上げたのは、未央ではなかった。 隆一の弟にあたるという男性だった。名前は、顔だけを何度か見たことがある。三年前、私が追い出される時には、何も言わずに廊下の奥から見ていた人だ。「その席は親族席だろう。彼女はもう如月じゃないはずだ」 その言葉を受けて、親族の何人かがこちらを見る。 琴美が小さく息を呑んだ。 隆一は祭壇の前で僧侶と話していたが、その声に振り向いた。 私は、札の上の自分の名前を見た。 朝霧栞。 如月ではない。 それは私が選んだことだ。「ええ」 私は答えた。「如月家の人間じゃありません。もう」 ざわめきが広がる。 未央の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 私は続けた。「でも、静江さんに最後まで名前を呼んでもらった者です。今日ここにいる理由は、それで足ります」 男性の眉が動いた。「生意気なことを。育ててもらった恩も忘れて」「育ててもらった」という言葉に、昔の癖で肩がこわばった。 育ててもらった。 その言葉は、昔なら逃げ場を塞ぐ縄だった。 でも今日は、少し違った。「恩を忘れてないから、来ました」 私は声を落とした。「売られた記憶まで、恩にはできません」 周囲のざわめきが引いた。 言いすぎたかもしれない。 けれど、言った後の後悔はなかった。 隆一の顔が灰色に近くなる。琴美が口元を押さえた。未央は、一瞬だけ泣く顔を忘れた。 その時、車椅子の小さな車輪の音が聞こえた。 律が、式場の入口から入ってきた。 今日も黒い仮面をつけている。 黒い喪服に黒いネクタイ。顔の半分を覆う黒い仮面。けれど会場の誰もすぐには声を出せなかった。噂の怪物当主としてではなく、榊グループの当主としてそこにいる。その事実が、場のざわめきを飲み込んだ。 律は私の隣で車椅子を止めた。「お話の途中、失礼します」 声は短く、しかし場を遮るには十分だ
焼香の匂いは、病院の消毒液よりもずっと柔らかいはずだった。 葬儀場の厚い絨毯が、靴音を吸い込んだ。 それなのに、息の奥に残ったまま離れなかった。 黒いワンピースの袖口を、私は膝の上で一度だけ摘まんだ。布は新しい。榊家の者が昨夜のうちに用意してくれたものだ。サイズは合っていた。動きにくくもない。 けれど、喪服の黒は、体に馴染むまで少し時間がかかる。 葬儀場の控室には、親族用の白い札が並んでいた。 如月隆一。 如月琴美。 如月未央。 その列の端に、一つだけ違う札が置かれている。 朝霧栞。 隣には、榊律。 札の前で、足が止まった。 如月の列から外されている。けれど、弔問客の端に追いやられているわけでもない。白い札は、親族席の一角に置かれていた。 誰かが決めた席順だ。 たぶん、律だ。「位置を変えますか」 背後から相良さんの声がした。 いつも通り静かな声だったが、今日はわずかに低い。喪服の黒いネクタイがきちんと結ばれている。相良さんは、手にした進行表を胸の前で伏せていた。「いえ。ただ、少し驚いただけです」「……でも、助かります」 相良さんの目が、下がった。「では、そのままご案内いたします」 私は頷いた。 葬儀場の廊下は、昨日の雨をまだ少し残していた。参列者の傘袋から落ちた水が、床の端に薄く伸びている。足を滑らせないよう、ゆっくり歩いた。 式場の入口に近づくにつれて、声が増えた。 親族の小さな挨拶。受付で名前を書く音。香典袋を差し出す時の紙の擦れ。誰かがすすり泣く声。 その中に、未央の声があった。「祖母は、最後まで家族のことを心配してたんです」 涙を含ませた、よく通る声だった。 私は足を止めなかった。「ずっと、私たちを見守ってくれていて……本当に、優しい祖母でした」 受付脇で、未央が親族らしき年配の女性にハンカチを押し当てている。喪服姿は
そして、静かに時刻を告げた。 祖母の手は、まだ温かかった。 それが、いちばん残酷だった。「……おばあさま」 呼んでも、返事はなかった。 私は泣き声を出さなかった。 声を出したら、手を離してしまいそうだった。 白い壁に、午後の光が薄く広がっていた。 琴美が崩れるように椅子へ座り込む。隆一はベッドの足元に立ったまま、唇を動かしていた。何か言おうとして、何も出てこない顔だった。 律は、扉の外にいた。 約束通り、入ってこなかった。 私はゆっくり祖母の手をシーツの上へ戻した。 指を離すまで、何度もためらった。 田辺さんが、白い布を用意する。 その布が祖母の顔へ近づき、私は反射的に声を上げた。「待って。まだ、隠さないで」 声が出た。 みんなが私を見る。 私はバッグから守り袋を取り出した。保全袋の中に入れたままだから、直接は触れない。けれど、その色だけは祖母にも見えると思った。「これを、見つけました」 祖母にはもう見えない。 それでも、私は言った。「ちゃんと、取り戻しました」 田辺さんが視線を落とした。 琴美がまた泣いた。 隆一は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。 白い布が、祖母の顔に静かにかけられた。 病室の時計だけが、変わらず進んでいた。 廊下へ出ると、足元が少し沈むような感覚がした。 律がそこにいた。「朝霧さん」 その声を聞いて初めて、病室の外へ出たのだと分かった。「……泣けないんです」 口にすると、自分でも驚くほど平らな声だった。 律は答えるまでに間があった。「今じゃなくても、いいでしょう」「……あとからでも?」「さあ。あとから来るかもしれないし、来ないかもしれません」 それ以上の言葉はなかった。 背中に、壁の
なのに今聞くと、初めての言葉みたいに胸へ沈んだ。 廊下の向こうでワゴンの車輪が鳴り、消毒液の匂いが病室の隙間へ薄く流れ込んできた。「誰が何を言っても。血がどうでも。家の名前がどうでも」 祖母の指が、私の手の中で少し動いた。「誰かの代わりじゃない」 祖母の手を包む指に、力が入った。「……おばあさま」「隆一には、負けなくていい」 その名前だけが、酸素の音の中にはっきり残った。 祖母は目を開けなかった。「会社のため、家のため。あの子はずっと、そう言ってきた。でもね、栞」 酸素の音が大きくなる。「……人を使ってまで残すものじゃないよ。家なんて」 扉の外で、何かが小さく動いた気配がした。 田辺さんが振り返る。ガラス窓の向こうに、隆一の影が見えた。琴美もいる。いつ来たのか分からない。 祖母の声が、もう一度細くなる。「戻らなくていい」 私は祖母の手を握ったまま、頷いた。「戻りません」「でも、恨みだけで、生きないで」 握っていた祖母の手が、急に重く感じられた。 祖母は、私の痛いところをいつも一度で当てる。「腹が立つなら、腹を立ててなさい。泣きたいなら泣けばいい。でもね……それだけで終わらないで」 私は何も言えなかった。 涙が落ちる。 手の甲に当たって、祖母の皮膚を濡らした。「ごめんなさい」 なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。 会いに来るのが遅かったこと。 もっと早く守り袋を取り戻せなかったこと。 祖母の知っていることを、今この場で全部聞きたいと思っていること。 どれも、たぶん本当だった。「謝るのは、私の方」 祖母が言う。「それから……」 田辺さんが少し身を乗り出した。 祖母の呼吸が浅くなっている。「封筒を、預けてあるの。田
祖母は、窓側のベッドにいた。 顔が小さくなっていた。酸素のチューブが頬を横切り、薄い布団の下で胸がゆっくり上下している。モニターの緑色の線が、規則正しく揺れていた。 モニターの小さな音だけが、病室の白さの中で妙にはっきりしていた。 その規則正しさが、かえって怖かった。 「……おばあさま」 声をかけると、祖母のまぶたが少し動いた。 すぐには開かない。 私はベッド脇の椅子へ座った。祖母に何から伝えるべきか迷い、バッグの金具に指をかけたまま止まった。 祖母の指が、シーツの上でかすかに動く。 私はその手を取った。 軽かった。 昔、私の髪を結んでくれた手だ。熱を出した夜に、額へ濡れタオルを当ててくれた手だ。階段事件のあと、誰も私の話を聞かなかった家で、最後まで私を見てくれた手だ。 その手が、今は私の指に引っかかるだけだった。 「栞……」 かすれた声が、酸素の音に混ざった。 「来ました」 「寒く、ない?」 祖母の指を握る手に、力が入った。 こんな時まで、祖母は私のことを聞く。 「寒くありません。……嘘です。少し寒いです。でも、手を握ってたら大丈夫です」 大丈夫、と言った自分の声が、ひどく頼りなかった。 祖母の目がゆっくり開く。焦点が合うまで時間がかかった。それでも、私を見つけると目が少し和らいだ。 「……きれいに、なったね」 「やめてください。今、それを言うなら、おばあさまの方です」 笑おうとしたのに、口元が震えた。 祖母も笑おうとして、息を吸い損ねた。田辺さんがそっと近づき、酸素の位置を直す。 私は慌てて手を離しかけた。 「いいの」 祖母の指が、かすかに私を止めた。 「持っていて」 「……はい」 私はもう一度、指を包んだ。 少し間が空いた。 窓の外は曇っていた。光が白くて、病室のものを全部薄くしている。花瓶の水も、ベッド脇の時計も、祖
救急入口の自動ドアが開いた瞬間、消毒液の匂いが肺の奥まで入ってきた。 白い床に、靴音が薄く跳ねる。 車を降りる時、膝の上に落ちていた包み紙が床へ滑った。拾おうとした指が、うまく動かなかった。「そのままで」 律が短く言った。 私は返事をしないまま、バッグだけを掴んだ。相良さんが後ろで何かを拾う気配がしたけれど、振り返れなかった。 受付の横にいた看護師が、こちらを見るなり歩み寄ってきた。「朝霧さんですね。田辺です」 何度も祖母の病室で見た人だった。いつもは少し柔らかい声をしているのに、今日はその柔らかさを仕事の顔で抑えている。「主治医から説明があります。こちらへ」「祖母は」 言葉が先に出た。 田辺さんは足を止めなかった。「今は、処置のあとで落ち着いています。ただ、かなり厳しい状態です」 落ち着いている。 厳しい。 二つの言葉が並んでも、意味がうまくつながらない。 廊下の角を曲がる。自動販売機の低い音が聞こえた。誰かのスリッパが床を擦る音もする。病院はいつも通り動いているのに、私の足だけが遅れていた。 律は、少し後ろを来ていた。 車椅子の車輪の音はしない。 振り返りそうになって、やめた。 今それを見てしまったら、祖母のこと以外まで考えてしまう。 説明室の前で、主治医が待っていた。 眼鏡の奥の目に、寝不足の色がある。祖母の病状説明を何度もしてくれた医師だ。淡々としているけれど、事務的ではない。「朝霧さん。お祖母様ですが、先ほど急に血圧が下がり、呼吸も浅くなりました。酸素と点滴で一度持ち直しています」 持ち直している。 私はその言葉だけにすがろうとして、医師の次の間で手を離された。「ただ、もともとのご病状と体力を考えると、今後また同じ状態になった時、積極的な延命処置で回復が見込める可能性は高くありません。ご本人からも、苦しい処置は望まないという意思表示を以前からいただいています」 椅子の背もたれに、背中が当たった。 いつ座った
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし